ふれっしゅらいふ、その後のハナシ。
子どもの言語教育
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    【忘れてしまったことも、忘れている感覚】

    考える、という行為の土台は言葉でできている。
    と、言うことは…言葉を覚える以前は「Don't think! Feel it!」だったわけだ。
    (Don'tじゃなくてCan'tだったんだろうだけど)

    誰もが辿ってきた過程のはずなのに、言葉で思考する今の私たちには
    言葉を得る以前の世界の捉え方がどんなものだったのかを思い出せない。
    言葉を介さずに触れる世界はどんなものだったんだろう。
    感覚で捉える世界と、言葉(概念)で捉える世界は完全に異次元なんだろうな。
    過去や未来といった時間の概念も、自分と他人という区別もない世界。

    今流行の座禅やヨガといった瞑想(メディテーション)の類は、
    この言葉のない(言葉を超えた)世界を目指す。
    最大のパフォーマンスを得られる、ゾーンやフローと呼ばれる精神状態も
    今ここ」に全てが集約するという点で同じものだと思う。この原始的な感覚が
    ストレス解消など多方面にプラスの効果があると
    科学的にも実証されるようになった。
    大人が座禅や瞑想を通して一生懸命目指そうとしている世界に、
    物心つく以前の私たちは生まれながらにしてどっぷりと浸かっていたわけだ。
    → どっぷりと、分別のない世界に


    【単なる空白の期間なんだろうか?】

    生の原始的な感覚の世界で得た経験は、言葉の獲得のために集約されるように見える。
    2〜3年しかない生の原始的な感覚の世界と、言語を習得した後の世界は
    どんなふうに繋がっているんだろう。生の原始的な感覚の世界は単なる空白で、
    言葉を覚えるための前段階に過ぎないんだろうか。
    子供の言語教育といえば、この空白を埋めることを指す。
    いかに早く発語させるか、いかに多くの語彙を覚えさせるか。
    早く数字や文字を覚えさせよう。 空白が大きいうちに数カ国語を覚えさせよう。
    私が興味あるのは、数年しか経験できないこの世界が本当に
    急いで埋めるべき空白、ムダな期間なのか、ってこと。


    【心を動かす天才】

    外の世界を言葉を介さずにダイレクトに受け止めたときに起こる反応が
    感動」という心の動きなんじゃないか、と考えたことがある。

    そして「感動」を原動力にして人は「成長」することができる。大人も子どもも。
    子どもが「感性豊かだ」とか大人に比べて「感受性が高い」と言われるのは
    感動の閾値が低いからだ。まだ言葉のフィルターが完成していないから、
    世界に対して、自分という存在が無防備に開かれている。
    だから五感でキャッチした刺激を刺激のままに、感じ取るままに受け止めることができる。

    言葉を獲得した私たちは、言葉をもって世界を把握・分類・定義する。無意識に。
    心の動きすら言葉で定義する。そして理解したつもりになっている。
    枠にはめられて制限された心は、動じにくくなる。つまり、感動の閾値が高くなる。
    言葉を操る能力、考える力は一種のスキルだから、訓練すればどうにかなる。
    頭の動かし方は誰かに教わることができるかもしれない。
    でも心は「さあ動かそう」と思ってもなかなか動かせるもんじゃない。

    私は子どもたちに、心が何にも制限されずに自由に動けるうちに
    たくさんの感動を経験してほしいなって思う。頭を動かす訓練で
    その貴重な期間を埋め尽くすのはもったいない気がするんだ。
    → 感動する準備


    【情報・知識としての言葉】

    体験が言葉の習得を加速させる、という研究は多く発表されている。
    身体で経験する、五感で世界を取り込む。それが心を刺激して動かす。
    心が動く経験(感動)が、成長の原動力になる。そういうことだよね。

    でも、この経験をすっとばしたとしても言葉は覚えることができる。
    言葉は意味と音を結びつける記号でしか無いわけだから、ただ
    特定の意味を示す音のカタマリとして機械的、反射的に記憶させればいい。
    これが空白を埋めるための言語教育だ。言葉は知識、情報として扱われる。
    子どものための英語教育なんかもこういうスタンスが主流だ。

    こうしてチャッチャと頭で考える世界にデビューした子どもと
    心を動かす経験をたっぷり経てから言葉の世界にたどり着いた子どもは
    その後の思考能力・精神面・運動能力・人格その他諸々に違いが出るんだろうか。
    言語の習得過程に関する研究はたくさんあるけど、こういう内面的な活動を
    客観的に測定するのは難しいから、想像に頼るしか無い。だから、
    ○○メソッド、○○の子育て論とか、信念的なものの中でしか語られない。

    私個人としては、知識・情報としての言葉を一方的に注入するやり方に
    すごく抵抗があるんだけど、それがどうイケナイのか正直よくわかっていない。



    人間は何のために言葉を得たのか。鳥のさえずりやカエルの合唱みたいに、
    セックスアピールだったのかもしれない。危険を知らせる信号だったのかもしれない。
    群れの中で仲間意識を強める手段だったのかもしれない。
    これだけ複雑に言葉の仕組みが発達したのは、情報の伝達だけが目的じゃないからだろう。

    言葉の背景には、心がある。意思がある。そこに人間らしさがある。

    私は、言葉から人間らしさを奪いたくない。そう思う。
     
    12:34 考えること comments(0)
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