ふれっしゅらいふ、その後のハナシ。
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    神聖さを求めて
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      【神聖なもの】
      きっと多くの人が「神聖なもの」と聞いて連想するのは
      混じりけのない、清潔で、ピュアな、人に触れられていない
      まばゆいくらいに明るいものや場所なんじゃないだろうか。
      絶対的な、人を超えたマッチョな存在。

      大昔、アニミズム信仰だったと言われる時代の人たちにとって
      「神聖なもの」っていうのは、薄暗く、ぼんやりとしていて
      なんだかよくわからないけどぞっとするような、
      鬱蒼とした、おどろおどろしい不気味な存在だったんじゃないだろうか。


      例えば神社鳥居。日本人が「神聖なもの」として思い浮かべる場所。
      万葉集の中で、神社はモリと読まれていた。

      神社はだいたい森の奥にあるもんだから、
      全体の中の一部としてモリと呼んでいたのかもしれないし
      モリという言葉そのもの、森そのものが神聖な場所だったのかもしれない。

      モリ(森、杜)の語源は「盛り」だった、という説がある。
      もりもりと木が生えている場所、そしてこんもりと土を盛った場所。
      人が死ぬ。穴を掘って埋める。土を盛る。そして目印をひとつ立てる。
      その目印は今と同じように石墓だったかもしれないし、木木だったかもしれない。
      もしかしたら、個人を埋葬した土の小山を指して「盛り」と言っていたのが
      いつのまにかその上に突っ立つ木木を指して言うようになったんじゃないか、と。


      【循環する神聖さ】
      「死」は私たちの日常を遮断する。日常から遮断された様々な状態をケガレと言う。
      は食べ物を、そして食べ物を摂取する当たり前の毎日、日常を指す。
      が枯れてしまった状態、それがケ枯れ。遮断された日常をまた再開させるために、
      ケガレを振り払うために、私たちはハレの場を準備し、マツリゴトを行う。

      神社鳥居はマツリゴトのための正式な場所、ハレ(非日常)の場である。
      そしてケガレに転じたは、ハレの場を通してまたに戻る。

      私たちの思い浮かべる神聖な場所、神社鳥居というのは
      ケ(日常)とハレ(非日常)の交換地点、循環する輪の中の一通過点だって考えられる。
      「死」と「生」を交換する場所。人の手の及ばないなんかすげぇチカラにこうべを垂れる場所。
      それは空のかなた上にある、非日常一点のまばゆい絶対的な存在とは違う。


      【自然の中にある神聖さと、完結する神聖さ】
      モリが神社であり森であったように、私たちの「神聖なもの」は自然と共にあった。
      森そのものが、山そのものが、岩が、木が、川が、
      それぞれに人とは違う「存在」として認められていた
      どっちが偉いか、どっちが凄いか、そういうことじゃなくて。
      「畏れ」ってのはそういうことだと私は勝手に解釈してる。

      自ずから然り。それが自然であって、その裏側には神聖さと日常の交差点があった。


      英語のNatureは「自然」と訳されるけど、それも日本の「自然」とは違う。
      人間、人工物と対立するもの、そして征服すべきものとしてNatureはある。

      中東の「自然」は、日本の「自然」とは違う。
      そりゃ、気候が全く違うんだから、自然環境も違って至極当然。
      彼らの神聖さは、自然を一切排除しコントロール下に置いた場所にある。
      肯定的で調和的、完全な状態の永遠の土地、パラダイス
      パラダイスの語源は「壁で覆われた場所」、つまり自然から切り離された場所






      なんとなく、なんとなくだけど。
      日本人の「神聖なもの」も、だんだん自然から離れてきているような気もする。
      どっちが良いとか悪いとかでなく。

      清潔で、純粋で、完全無欠な美の拠り所なのか、
      ぐるぐる回る自然の中に見出した特別な通過点なのか。

       
      18:41 考えること comments(0)
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