ふれっしゅらいふ、その後のハナシ。
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    ありったけ。ありっ茸キノコ。
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      「由,誨女知之乎。知之為知之,不知為不知,是知也」
       ―― 孔子『論語』


      由よ、汝に之を知ることをおしえんか。
      之を知るを之を知ると為し、
      知らざるを知らざると為す。
      是れ知るなり。


      「知る」と言うのはどういうことなのか。
      「知らない」ということを「知る」、それが「知る」ということ。

      インターネットで世界中と繋がることが出来るようになった現代の私たちは、
      「世界が開かれた」と錯覚してしまいがちだ。結局のところ、
      私たちは気の合う一部の連中と、閉鎖的なコミュニティの中で
      内輪ネタで盛り上がっているに過ぎないのに。
      触れられる情報は確かに増えたけど、私たちは無意識に信じるに足るもの、
      足らぬものを取捨選択している。その仕分けの基準が変わらぬ限り、
      私たちはいつまでも井の中の蛙なんじゃないだろうか。

      知識における最大の敵は無知ではなく、知っていると錯覚することだ。
       ―― スティーブン・ホーキング博士

      私達は、まだ「知らない」ということすら知らない
      無知の自覚、世界はそこからようやっと始まることが出来る。
      いくら知識が増えても、「知らない」ことを完全に塗りつぶすことはできない。
      それは途方もないことのように感じるかもしれない。
      でも、こう考えたらどうだろう。
      知識は無知を失くすためにあるんじゃなくて、より多くの疑問、
      より高次の無知を持つためにある。

      知識は詰め込むものじゃない。ただ記録するだけならコンピューターに任せればいい。
      私達は疑問を持つことが出来る。水面に広がる波紋のように。
      それはとってもスバラシいことなんじゃないかな。


      これは中国の思想家、荘子のおはなし。
      友人恵子と川のほとりをお散歩している荘子が、魚を見て言った。
      お魚さん気持ちよさそうに泳いどるわ。あれが魚の楽しみってやつなんや
      恵子はそこで「ほんまね〜」なんて悠々とお返事してくれる友人じゃない。
      あんた魚やないねんから、魚の気持ちなんてわからへんやろ
      荘子も負けじと言い返す。
      あんたワシやないねんから、ワシがわかるかどうかなんてわからへんやろ
      そりゃ私はあんたやないんやから、あんたのことなんてわからへん。
      でもあんたも魚やないねんから、魚の気持ちなんて分からんのが当然やろ

      ちょっと話戻そうや。
      君は最初に『魚の気持ちなんてわからへんやろ』って聞いてきたやろ。
      ってことは、や。君はもうワシが魚の楽しみを知っとる気でおることを
      わかっとって聞いてきたわけやろ。ワシだって同じように
      お魚さんの気持ちがわかったっちゅうこっちゃ


      「自分じゃない限り、その人(魚)の気持ちなんてわかりっこないんだよ」
      と自信たっぷりに言う恵子本人が、荘子の気持ちをわかっている前提で
      質問しているということに気付いていない、というオチ。(だと私は思う)



      ある国には、「丸い金魚鉢で金魚を飼ってはいけない」という法律があるらしい。
      丸い金魚鉢だと世界が歪んで見えるから、可哀そうなんだとか。
      「丸い金魚鉢の中にいる金魚が見る世界が真実ではない」と言えるのは、
      私達が金魚鉢の外の世界から金魚鉢を見ることが出来るから。

      もし私が金魚なら、今見えている世界が嘘だといわれても、それが私にとって
      全てであるわけだから、それは真実でしかないだろう。

      仮に突然変な生き物があなたの目の前に現れて
      「可哀そうに、あなたが見ている世界は歪んでいる。
      今見ているパソコンの画面は四角じゃなくて本当は丸いんだ」
      なんて言われても、あなたが金魚鉢の中にいる限り
      「ああ確かに私は可哀そうだ」なんて思わないんじゃないかな。

      水中の生き物が水に無自覚であるように、
      空気の中で生きている私達が空気に無自覚であるように、
      例えそれが一枚外側の世界から見て「正」でなくても
      私達にとってそれは「正」「誤」以前の問題で、
      そこに分別はないんだ。

      例えば三次元の私達には六次元、七次元の世界が理解できない。
      推測、想像はできても、こちらから向こうを観察することはできない。

      時間」もまた然り。
      私達が時間の中に生きている限り、外から時間を観察することは不可能。
      時計を見て「時間が進んでいる」と知ることはできるかもしれないけど、
      それは「時間そのもの」を理解できたとは言えない。
      私達は時間が過去から未来に一直線に進んでいるのをイメージする。
      でももしかしたら、時間なんてのは錯覚にすぎないのかもしれない。
      本当は過去も未来なんてのも無く、泡みたいに時間の源泉みたいなものから
      ぽこぽこ湧いて出てきているのかもしれない。
      私達が五感で感じ取っているすべてのものは、
      単に泡の表面に映った影なのかもしれない。
      生まれる前と死んだ後にその時間の源泉みたいなものに還っていくのかもしれない。
      そうだとすると「個」なんてのは一瞬の気のせいであって
      本質はみんな一体なんじゃないかな、と途方もないことを考える。
      私が勝手に「泡ぶく理論」と呼んでケンキューしているこれ、
      私が大学生の時に思いついたもの。

      大学はより高度な「知識」を収集する場所だと思っていたけど、
      そうじゃなかったようだ。最後に教授が教えてくれたこと、
      それは「私達の知識は全く役に立たない」ということ。

      今まであなた方が勉強してきたことは、これから一切役に立ちません。
      社会人になっても、活かすことはできません。
      (一同、笑う)
      だから、全部忘れなさい。忘れてしまいなさい。
      全部リセットしてください。
      (一同、ざわつく)
      全部リセットした後に、残ったものが一番大切なものです。
      知識よりも大切なものを、あなた方はこの4年間で見つけたはずです。
      何もかもをリセットしても残るものが、あなたにはあるはずです。

       ―― 我らが愛すべきM教授


      不自由な時代に生まれた人は、選択肢が増えることが自由だと信じる。
      そして選択肢が増えれば増えるほど、足取りが重くなることに気付く。
      次のステップで人は選択肢を極限にまでに減らして、
      そこにようやく自由があると気付く。大事なのは選択肢の多さじゃなくて
      どれを選びとるか、何を軸に自分の選択をするか、ということ。
      人生の舵は誰がとるのか?聞くまでも無いこと、のはず。


      「無自覚」に心を向ける。
      言葉の及ばない、自分のいちばん奥ッ底にある部分に。



      世の中は 夢かうつつか うつつとも
      夢とも知らず ありてなければ

       
      16:23 日々のこと comments(0)
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