ふれっしゅらいふ、その後のハナシ。
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    身につけたい「ことば」のチカラ
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      健康なカラダをつくるためには、食べて、消化して、排泄する必要がある。
      理想は、栄養のあるオイシイものを食べて、効率よく消化吸収して、
      滞りなく定期的に排泄できること。
      賢いアタマをつくるために大切なことも、このサイクルで例えられそう。
      情報や知識を取り入れ(食)、理解して(消化して)
      自分なりの考えを持ってそれをアウトプットする(排泄)。
      豊かなココロはどうだろう。
      適度でバラエティ豊富な刺激を受け(食)、感動する経験を持ち(消化)、
      自由に表現する(排泄)。
      絶賛子育て中の母親として息子には「健康」で「賢く」「感性豊か」でいてほしいと切に願う。
      そして自分も!そんな人間になれるよう日々精進せねば、と思っちゃいる。
      私が思う「賢さ」は、「ことばの運用能力の高さ」にある。
      お喋りが上手かどうか、とか、国語の成績がうんたら、ではなく!

      (1)聞くチカラ→(2)考えるチカラ→(3)伝えるチカラ
      この三つのチカラが高い水準にあるかどうか、ってこと。
      これも「食べる→消化する→排泄する」サイクルと一緒で
      じゅんぐり辿ること、そのバランスが大切だと思う。
      この三つの能力は「ことば」の役割そのものでもあるし、
      「ことば」ありきの能力だから
      ことばの運用能力」とひとことで表してみた。もっとピッタリくる表現あるかな?
      人は自然に「ことば(母語)」を身につけるわけだから、
      このチカラだって発達に沿って自然と育っていくはず…なんだけど
      それぞれのチカラの「伸び具合」や「深さ」はやっぱり幼児期の環境の影響が大きい。
      で、上に挙げた三つのチカラ、母語である日本語でどれくらいのレベルを目指すのか
      ちょっとマメマメと考えてみたいのと、そのために具体的にできることと
      やりがちだけど気をつけなきゃいけないな、ってことをまとめてみたい。
      <三つのチカラの理想のレベル>

       

      (1)能動的に聞くチカラ
      「聞く」姿勢ってのは、「学び」の姿勢にそのまま映し出される。

      素直に人の話を聞くってのは、子どもであれ大人であれ「成長」に必要不可欠なこと。
      相手の意見に耳を傾けられる、そして人の意見を尊重できる人間であってほしい。
      自分とは異なる意見であっても、まずはそれを「聞く」ことができる態度が
      多(他)文化を認める態度につながっていると思う。

       

      そして能動的に聞くこと。hearing(漫然と聞く)ではなくlistening(聞こうとして聞く)チカラ。
      言っていることばの意味がわかる(単語の意味がわかる)だけじゃなくて
      ことばの意図を読み取る」チカラ、コレすごく大切だと思う。
      私が幼児期の外国語習得に際していちばん重要視したい「聞く」チカラは、
      lとrが聞き分けられるかとか意味のわかる単語の語彙数とかではなく
      英語を英語として素直に聞くことができるチカラ
      英語には英語特有のリズムやテンポがある。日本語とは全く別の音のシステムを、日本語を介して理解しようとするから難しいことになる。
      英語を英語のまま素直に頭に通してそれをインプットできる能力は幼児期の得意分野なのは言わずもがな。
      (2) 自分なりの考えを持つチカラ
      聞いた内容(耳で聞く以外にも読んだり見たりした情報)を理解出来た次の段階。
      消化・吸収、自分のものにできるかどうかがこの部分。
      素直に何でもかんでも信じ込んだり、ただ批判否定して自尊心を満足させるだけなのは避けたい。
      自分の人生を自分でいきるために、このチカラは鍛えられるだけ鍛えたい。
      (ここのところ毎日ルーチンをこなすだけの毎日の自分に言いたい!頭動かせ!)

       

      社会(学校)で測られる個人の「賢さ」の尺度が「(決まった)解を正確に答えるチカラ」であるから

      「正解のない問いが ある」こと、むしろ「人生で何度も直面するであろう悩みのほとんどが正解のない問い

      なんだということも忘れがちになってしまう。

       

      公式や解法を暗記するだけじゃ身につかないこのチカラ。

      ひとつの「解」が定まってない「問」に対して放り出さずに考えるチカラ。

      目に見える成果を求めてしまうと、このチカラを伸ばすどころか押さえつけてしまう危険性がある。
      まずは親である私が先入観や固定観念に気付いて自分の頭で考える練習をしないといけない。
      考える力をつける哲学問題集
      ↑考え方を考える、その練習にピッタリなこの本。哲学とタイトルにあるけど、
      短編小説を読むようにおもしろ楽しく読み進められる。

      (3)適切なことばで伝えるチカラ
      意思表示ができる。一方的に言いたいことを言うだけじゃなく、
      相手に伝わる方法でことばを選ぶことができるチカラ。
      伝えるという行為の先には「相手」がいる。自分ではない別の人間がいる。

      聞く姿勢同様、相手を尊重できる話し手になりたい。

       

      「伝える」ことは日本人が特に苦手とする部分なのかもしれない。(私も・・・)

      以上が、目標としている母国語(日本語)のレベル。

      放っておけば(幼稚園や学校など環境の影響のみで)自然と身につくかというと、そういうわけでもない。

       

      「母国語を大切にしましょう」と言われると曖昧でよぅわからんけども

      母国語における上記の「ことばの運用能力」を磨きましょう、ということなら

      具体的に身近な大人がどうサポートできるか、気をつけるべき点は何かが見えてくる。

       

      <三つチカラを伸ばすために出来ること>
      「ことばの運用能力」を伸ばすために母親の役割が大きいことは言わずもがな。
      母親は母国語の使い手として最初に出会う最大のロールモデル、お手本にならないといけない。
      ☆発達に応じた言葉がけ
      高いピッチのゆっくりとした短い言葉、繰り返しのある擬音語、
      いわゆる赤ちゃん言葉は赤ちゃんの言語発達に役立っている。
      ↓月齢別の具体的な言葉がけの方法はこの本に詳しくのっている。
      ☆一方的ではないやりとりを大切にする
      まずは母親が、相手を尊重(たとえまだ言葉を発せない赤ちゃんだとしても)した話し手となり
      そして聞き手にもなってコミュニケーションのかたち、楽しさを教えてあげる。
      赤ちゃんのしぐさ、視線、サインをキャッチして、それに反応してあげる。
      とはいってもお母さんだって最初から赤ちゃんと以心伝心ってわけじゃない。
      「この子はなんでこんなに泣いてるの!こっちが泣きたいよ!」からのスタートで、
      相手の一生懸命な意思表示を理解しようと努めるところから、コミュニケーションが始まる。
      「聞くチカラ」を深く伸ばすために、自分自身の声を聞いてもらう、聞いてもらえる経験が大切だと思う。
      そして聞いてもらえ安心感があれば、伝えたいという気持ちと、伝えようという意思が育つ。
      訓練者ではなく話し相手に。上の本のことばを借りるなら、
      誠実なことばをどれだけかけてもらったかが人間形成に大きく影響する」と。
      ☆本(絵本、物語、昔話)に親しむ
      本はココロの栄養デス。とはいっても「文字を覚えさせねば!」とか「頭が良くなるために!」とか
      「1日〇冊、トータル〇〇冊読まねば!」と黙ってオリコウさんに聞きなさいオーラを出して読むのと
      楽しい時間を共有して読むとでは、同じ本を読んでいたとしても全く違う結果になる。
      本を読むためにも、本を読むのに必要な力を育てるためにも、本を読んだあと、
      その内容を消化するためにも、欠かせない大切なこと
      、「孤独(ひとり)」でいる時間だ、と子どもの本の専門家は言う。
      ☆孤独を尊重する
      何かを伸ばそう、チカラをつけてあげよう、と思うと「与える」ことばかり一生懸命になってしまうけど
      特に「考えるチカラ」なんかは、親があれこれ手を出し口を出すと逆に潰してしまう危険性がある。
      人間には、外からの刺激を受けずに、ひとりで静かに過ごす時間にしか起こらない、内的な発達が
      ある。刺激過多なこのご時世、ヒマ=ムダとばかりに空白が埋められていく。
      心の中でことばを使うこと(自分との対話をする能力)を子どもの発達心理学なんかでは
      「内言」と言われている。脳(前頭葉)の発達の研究でもこの「内言」の重要さが強調されていて
      高度な思考技術に大きく関与している、とのこと。
      <おしまい>
      以上、母国語である日本語の「ことばの運用能力」の目指すレベルについて
      思いつくままに書いてみました。頭を整理しながら、少しずつ少しずつ書いてようやっとここまで。
      読みやすいようにまとめたりもうちょっと整理したいんだけどね、とりあえずここまで。
      息子のことばの発達を観察するのが毎日おもしろく、発見と驚きに満ちてます。
      子どもって、おもしろい。大人が子供から学ぶことって、想像以上にたくさんある。
      へとへとに疲れ果てて何もしたくなくなったり、イライラしてジュースをがぶ飲みしたり
      それも毎日のことなんだけど・・・それでも今しかないこの時期を愛おしんで暮らしたいものです。
      15:24 考えること comments(0)
      子どもの言語教育
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        【忘れてしまったことも、忘れている感覚】

        考える、という行為の土台は言葉でできている。
        と、言うことは…言葉を覚える以前は「Don't think! Feel it!」だったわけだ。
        (Don'tじゃなくてCan'tだったんだろうだけど)

        誰もが辿ってきた過程のはずなのに、言葉で思考する今の私たちには
        言葉を得る以前の世界の捉え方がどんなものだったのかを思い出せない。
        言葉を介さずに触れる世界はどんなものだったんだろう。
        感覚で捉える世界と、言葉(概念)で捉える世界は完全に異次元なんだろうな。
        過去や未来といった時間の概念も、自分と他人という区別もない世界。

        今流行の座禅やヨガといった瞑想(メディテーション)の類は、
        この言葉のない(言葉を超えた)世界を目指す。
        最大のパフォーマンスを得られる、ゾーンやフローと呼ばれる精神状態も
        今ここ」に全てが集約するという点で同じものだと思う。この原始的な感覚が
        ストレス解消など多方面にプラスの効果があると
        科学的にも実証されるようになった。
        大人が座禅や瞑想を通して一生懸命目指そうとしている世界に、
        物心つく以前の私たちは生まれながらにしてどっぷりと浸かっていたわけだ。
        → どっぷりと、分別のない世界に


        【単なる空白の期間なんだろうか?】

        生の原始的な感覚の世界で得た経験は、言葉の獲得のために集約されるように見える。
        2〜3年しかない生の原始的な感覚の世界と、言語を習得した後の世界は
        どんなふうに繋がっているんだろう。生の原始的な感覚の世界は単なる空白で、
        言葉を覚えるための前段階に過ぎないんだろうか。
        子供の言語教育といえば、この空白を埋めることを指す。
        いかに早く発語させるか、いかに多くの語彙を覚えさせるか。
        早く数字や文字を覚えさせよう。 空白が大きいうちに数カ国語を覚えさせよう。
        私が興味あるのは、数年しか経験できないこの世界が本当に
        急いで埋めるべき空白、ムダな期間なのか、ってこと。


        【心を動かす天才】

        外の世界を言葉を介さずにダイレクトに受け止めたときに起こる反応が
        感動」という心の動きなんじゃないか、と考えたことがある。

        そして「感動」を原動力にして人は「成長」することができる。大人も子どもも。
        子どもが「感性豊かだ」とか大人に比べて「感受性が高い」と言われるのは
        感動の閾値が低いからだ。まだ言葉のフィルターが完成していないから、
        世界に対して、自分という存在が無防備に開かれている。
        だから五感でキャッチした刺激を刺激のままに、感じ取るままに受け止めることができる。

        言葉を獲得した私たちは、言葉をもって世界を把握・分類・定義する。無意識に。
        心の動きすら言葉で定義する。そして理解したつもりになっている。
        枠にはめられて制限された心は、動じにくくなる。つまり、感動の閾値が高くなる。
        言葉を操る能力、考える力は一種のスキルだから、訓練すればどうにかなる。
        頭の動かし方は誰かに教わることができるかもしれない。
        でも心は「さあ動かそう」と思ってもなかなか動かせるもんじゃない。

        私は子どもたちに、心が何にも制限されずに自由に動けるうちに
        たくさんの感動を経験してほしいなって思う。頭を動かす訓練で
        その貴重な期間を埋め尽くすのはもったいない気がするんだ。
        → 感動する準備


        【情報・知識としての言葉】

        体験が言葉の習得を加速させる、という研究は多く発表されている。
        身体で経験する、五感で世界を取り込む。それが心を刺激して動かす。
        心が動く経験(感動)が、成長の原動力になる。そういうことだよね。

        でも、この経験をすっとばしたとしても言葉は覚えることができる。
        言葉は意味と音を結びつける記号でしか無いわけだから、ただ
        特定の意味を示す音のカタマリとして機械的、反射的に記憶させればいい。
        これが空白を埋めるための言語教育だ。言葉は知識、情報として扱われる。
        子どものための英語教育なんかもこういうスタンスが主流だ。

        こうしてチャッチャと頭で考える世界にデビューした子どもと
        心を動かす経験をたっぷり経てから言葉の世界にたどり着いた子どもは
        その後の思考能力・精神面・運動能力・人格その他諸々に違いが出るんだろうか。
        言語の習得過程に関する研究はたくさんあるけど、こういう内面的な活動を
        客観的に測定するのは難しいから、想像に頼るしか無い。だから、
        ○○メソッド、○○の子育て論とか、信念的なものの中でしか語られない。

        私個人としては、知識・情報としての言葉を一方的に注入するやり方に
        すごく抵抗があるんだけど、それがどうイケナイのか正直よくわかっていない。



        人間は何のために言葉を得たのか。鳥のさえずりやカエルの合唱みたいに、
        セックスアピールだったのかもしれない。危険を知らせる信号だったのかもしれない。
        群れの中で仲間意識を強める手段だったのかもしれない。
        これだけ複雑に言葉の仕組みが発達したのは、情報の伝達だけが目的じゃないからだろう。

        言葉の背景には、心がある。意思がある。そこに人間らしさがある。

        私は、言葉から人間らしさを奪いたくない。そう思う。
         
        12:34 考えること comments(0)
        神聖さを求めて
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          【神聖なもの】
          きっと多くの人が「神聖なもの」と聞いて連想するのは
          混じりけのない、清潔で、ピュアな、人に触れられていない
          まばゆいくらいに明るいものや場所なんじゃないだろうか。
          絶対的な、人を超えたマッチョな存在。

          大昔、アニミズム信仰だったと言われる時代の人たちにとって
          「神聖なもの」っていうのは、薄暗く、ぼんやりとしていて
          なんだかよくわからないけどぞっとするような、
          鬱蒼とした、おどろおどろしい不気味な存在だったんじゃないだろうか。


          例えば神社鳥居。日本人が「神聖なもの」として思い浮かべる場所。
          万葉集の中で、神社はモリと読まれていた。

          神社はだいたい森の奥にあるもんだから、
          全体の中の一部としてモリと呼んでいたのかもしれないし
          モリという言葉そのもの、森そのものが神聖な場所だったのかもしれない。

          モリ(森、杜)の語源は「盛り」だった、という説がある。
          もりもりと木が生えている場所、そしてこんもりと土を盛った場所。
          人が死ぬ。穴を掘って埋める。土を盛る。そして目印をひとつ立てる。
          その目印は今と同じように石墓だったかもしれないし、木木だったかもしれない。
          もしかしたら、個人を埋葬した土の小山を指して「盛り」と言っていたのが
          いつのまにかその上に突っ立つ木木を指して言うようになったんじゃないか、と。


          【循環する神聖さ】
          「死」は私たちの日常を遮断する。日常から遮断された様々な状態をケガレと言う。
          は食べ物を、そして食べ物を摂取する当たり前の毎日、日常を指す。
          が枯れてしまった状態、それがケ枯れ。遮断された日常をまた再開させるために、
          ケガレを振り払うために、私たちはハレの場を準備し、マツリゴトを行う。

          神社鳥居はマツリゴトのための正式な場所、ハレ(非日常)の場である。
          そしてケガレに転じたは、ハレの場を通してまたに戻る。

          私たちの思い浮かべる神聖な場所、神社鳥居というのは
          ケ(日常)とハレ(非日常)の交換地点、循環する輪の中の一通過点だって考えられる。
          「死」と「生」を交換する場所。人の手の及ばないなんかすげぇチカラにこうべを垂れる場所。
          それは空のかなた上にある、非日常一点のまばゆい絶対的な存在とは違う。


          【自然の中にある神聖さと、完結する神聖さ】
          モリが神社であり森であったように、私たちの「神聖なもの」は自然と共にあった。
          森そのものが、山そのものが、岩が、木が、川が、
          それぞれに人とは違う「存在」として認められていた
          どっちが偉いか、どっちが凄いか、そういうことじゃなくて。
          「畏れ」ってのはそういうことだと私は勝手に解釈してる。

          自ずから然り。それが自然であって、その裏側には神聖さと日常の交差点があった。


          英語のNatureは「自然」と訳されるけど、それも日本の「自然」とは違う。
          人間、人工物と対立するもの、そして征服すべきものとしてNatureはある。

          中東の「自然」は、日本の「自然」とは違う。
          そりゃ、気候が全く違うんだから、自然環境も違って至極当然。
          彼らの神聖さは、自然を一切排除しコントロール下に置いた場所にある。
          肯定的で調和的、完全な状態の永遠の土地、パラダイス
          パラダイスの語源は「壁で覆われた場所」、つまり自然から切り離された場所






          なんとなく、なんとなくだけど。
          日本人の「神聖なもの」も、だんだん自然から離れてきているような気もする。
          どっちが良いとか悪いとかでなく。

          清潔で、純粋で、完全無欠な美の拠り所なのか、
          ぐるぐる回る自然の中に見出した特別な通過点なのか。

           
          18:41 考えること comments(0)
          感動する準備
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            金丸悠児」という画家さんが描く動物たちのファンになってしまった。
            一枚の、平面の中に、三次元以上の表現が出来るんだなぁと感動した。


            彼の作品「トラ」を見ながら私もトラを描いてみた。
            ファンアートってやつ?


            私たちの「他人が表現した何かに触れて感動する」プロセスってのは
            言葉を介さない直観的な刺激が起こすもんなんだ。きっと。

            視覚か聴覚か味覚か何か、外からの「刺激」が直接「心」に届いて、
            そんでもってその刺激の揺らぎ、リズム、波長みたいなものが
            自分の「心」のそれと同調して「感動」が生まれるんじゃないだろーか。

            脳で言葉を生成して解釈を加えて得たものは「感想」であって「感動」じゃない。
            頭を動かす訓練は大事なことだけど、心を動かす経験もないがしろにしちゃいけない。
            だって、心を動かすことはやろうと思ってできることじゃない。絶対に相手が必要だから。
            自然でも、芸術作品でも、ふとした出来事でも、自分の外にある何かに出会う必要がある。


            外の世界に心がダイレクトに触れて、接点を持って、人は「感動」する。
            その経験を体内に取り込んで、自分の中に外の世界を組み込んで、人は「成長」する。
            組み込まれたピースを消化吸収し、排泄することで、人は「表現」する。


            「感性豊かだ」ってのは、心を動かす閾値が低いってことだと思う。つまり、感度が高い。
            子どもが感性豊かだと言われるのは、頭が柔らかいのと関係がある。
            頭で処理することに慣れてしまった大人は、刺激を刺激のまま心に通すことが難しくなる。
            かちこちの頭でっかちさんは自分の中にある情報・知識だけで世界を完結させようとする。
            外との接点を持てなければ、心も動かず、成長もできない。



            子どもは語彙が少ない。頭を動かす道具である「言葉」が少ないわけだから
            その分「心」がオープンなんだろうと思う。彼らの見ている世界は世界そのままの姿で、
            「言葉」で一時停止を食らうことなく心に届くのかもしれない。

            子どもには心を動かす経験をたくさんしてほしい。
            頭を動かす訓練で、心を動かす機会を奪ってしまうのはもったいない。



            大人だって、自分の外に目を向けよう。心をほんの少し無防備にしよう。








            感動する準備は、できてるか。
            19:08 考えること comments(0)
            損得勘定でも、高尚な理由でもない。
            0
              コミュニケーションのためだけに「言語」があるというのなら、
              私達は母語を捨ててひとつの共通語を使えば良い。



              言語が消滅するのは、生物が淘汰され進化してきたのと同様に
              自然な流れであって仕方のないことだ、と言う人もいる。


              伝わればいい、ただそれだけのためなら簡単な単語を並べればいい。
              文化を「知る」ためだけなら、母語で書かれた本を読めばいい。

              WHY DO WE LEARN LANGUAGES?


              言葉には、単なる意味以上の意味がある。そう思う。
              比喩であったり、言い回しだったり、罵り言葉や人の名前、
              外国語を学ぶことで色んな「モノの見方」を発見できた。

              何を喋るのか、ってのは
              その人の、その言葉を伝えてきた集団の「心の動かし方」を
              表してるんじゃないか、って思う。


              その言葉を話さなくても、雑学や知識として「知る」ことはできる。
              でも「知る」ことと、同じように「心を動かす」のは全く別物なわけで。
              言葉の中に脈々と流れる「心の動かし方」の歴史にダイレクトに
              触れたいからこそ、私は外国語を学ぶ。


              役に立つか、立たないか。
              それだけじゃないはず。


              おもしろいから。ただそれだけの理由だっていいじゃないか。



               
              20:46 考えること comments(0)
              変わらないものはどこにある
              0
                科学者や数学者は理論や法則を元に様々な観察、実験を行うが、
                そこには言うまでもなく「理論や法則が不変なものである」という前提がある。
                私達は「不変の理論や法則」が世界にあらかじめあると信じている。
                そして科学者や数学者はそれを「発見」することを生業としている。
                つまり私達が知っていようとなかろうと、誰かが発見しようがしまいが、その
                不変の理論や法則」はあらかじめ世界に存在しているっていう常識がそこにある。

                私達は「不変の世界にいる」という前提の上で、

                万物は流転する。太陽は日々新しい
                というヘラクレイトスの言葉を受け入れている。世界の実態は「不変」だけど、
                表面的には流転しているように見える、という解釈で。

                でも、ちょっと待って・・・
                不変の理論や法則」というのは本当にあらかじめ存在しているんだろうか?

                何を言ってるんだ。実際にそういう結果を観察しているんだ。
                私達は世界が「不変である」ことを認識できるじゃないか。
                そう、私達は世界の不変の理論や法則認識している。
                じゃあその認識が、認識の外の世界にあらかじめ実在していると言い切れるんだろうか。
                「これは頭の中だけじゃなくて、世界にもともとある不変なものだ」というのも
                その主張自体、頭の中で考えたことにすぎないんだから。


                <自分の見ている世界と、実在する世界>
                昔読んだある小説の話なんだけど、主人公は大変な事実に気づいてしまう。
                目の前のもの、自分の記憶・経験だと信じていたことすべてが、
                何者かによって操作された作り物だということに。

                今目の前にある(と信じている)もの、手に触れている(と感じている)もの
                学校で習った知識、自分がここにいるという認識、全てがデッチアゲで
                誰かに操作されているとしたら?SF映画、小説ではよく使われるネタかもしれない。
                今この場で「あなたが見ているもの感じているものは全てデッチアゲです」と
                言われても、あなたはきっと納得しない。そんなバカバカしい話、と思うだろう。
                でも私たちはそれが「絶対にありえない」ということを証明することが出来ない。

                なんだか切なくなる仮説だ。ディビッド・ヒュームという哲学者はこう言った。
                私たちは現実が本当に実在していることを信じるに足る道理にかなった理由をもたないが、
                それでも私たちは現実が真実であると思って行動する以外に選択肢がない。



                <頭の中にある同一性、変わらないもの>
                私達はイヌを見てイヌだと認識することが出来る。
                耳が垂れていても立っていても、しっぽがあってもなくても、
                鼻がとがっていてもつぶれていても、白でも黒でも何色でも、イヌはイヌだ。

                一匹一匹は当然違う存在なのに、私達はそれぞれのイヌを見て
                「イヌ」というひとつの同一性を認識できるのはなんでなんだろう。

                それは「イヌ」というパーフェクトなモデルイメージ(イデア)が存在するからだ、
                とプラトンは考えた。個々のイヌにはそのイデアが憑りついていて、私たちは
                イデアのおかげでそれがイヌだとわかるんだ、と。

                イヌのイデアがイヌに憑りついているかどうかはさておき、確かに私たちは
                頭の中に「イヌとは何か」というイメージがあって、イヌを判別している。
                その頭の中のイヌのイメージは全てのイヌに存在するエッセンス、
                つまり「同一性」を備えている。個々のイヌは全然違う存在だけど、
                頭の中には確かに「イヌ」というひとつのイメージ、つまり不変の同一性が存在している。


                <「イヌ」という言葉の意味がわかるということ>
                「イヌ」とは何かを知っている、ということを「イヌ」という言葉の意味がわかる
                という切り口で考えてみる。これはついでの話だけど、おもしろいから考えてみてほしい。
                でもこれは「意味」とはなにか人が言葉を覚えると言うのはどういうことなのか
                という別のテーマに流れちゃいそうだからちろっと触れるだけにしておく。

                イヌという言葉の意味が分かると言うのは、イヌという言葉とイヌというイメージ(同一性)
                一致させることが出来るからだ、というのが長く信じられてきた理論だった。
                そうすると、プラトンのいうイデアのようなものが元々頭の中にあるということになる。

                この見方をズバッと変えたのがウィトゲンシュタインだった。
                「イヌ」という言葉を知っている、ってのはその言葉を正しく使えるということだ、
                イデアが個々の事物に憑りついているわけでも、頭の中に神秘的な「意味」の
                リストが保存されているわけでもなく、「イヌ」なら「イヌ」という言葉の使い道、
                使える範囲を理解している、というのがその言葉の意味を知っているということになる。

                例えば私たちは「アインシュタイン」という人物名を知っている。
                でも実際に生身の本人に会ったことがあるわけではない。
                どんな人物で、どんな言葉が有名で、いつの時代の人なのか、という
                いくつかの約束事を知っている、ということに過ぎない。
                他の言葉をもって「アインシュタイン」を説明できる、それが
                「アインシュタイン」という言葉の意味を知っている、ということ。

                「イヌ」そのものを見た事が無くても、本を読んだり話を聞いたりして
                「イヌ」とは何か、という同一性(イメージ)を頭の中に持つことはできる。
                そこに外の世界の「イヌ」という実在、不変の同一性(イメージ)は必要ない。
                「イヌ」と言う言葉、一種の記号は、私達解読者がいて初めて
                生身の世界とリンクすることが出来る。


                <私達は「不変」を見出してしまう>
                認識の外にある世界が実在するかどうかはわからないとは言っても、
                認識そのものは確かにここにある。それこそデカルトの言う
                Cogito, ergo sum (我思う、ゆえに我あり) に違いない。

                イヌを見て「イヌ」という共通のエッセンス、同一性を見出すように、
                私達はバラバラでまとまりのない事物を見ていても、そこに
                不変の理論や法則」という同一性を見出してしまう癖があると言える。

                ひょっとすると世界にあらかじめ不変の理論や法則」があるわけじゃなくて
                私達の脳が勝手に「
                不変の理論や法則」を見出してしまっているのかもしれない。

                ウィトゲンシュタインはズバッと一言でこう言い表した。
                世界は事実の総体であり、事物の総体ではない。

                西田幾多郎が、物質は抽象的存在で意識こそが具体的事実なんだと言ったのも
                こういうことなんじゃないかと、勝手に思ったりしている。


                この考え方は、科学の前提をまるっきりひっくり返す。
                ひいては私たちの「常識」をまるっきりひっくり返す、ということ。

                「常識」を飛び越えると世界が広がる。文字通り、世界が広がる
                想像の範囲外に飛び出すのは、なんともスリリングで面白い(*゚∀゚)=3
                右瞳孔が開くオドロキを

                「哲学」は世界の見方に「なんで?」「ほんとに?」と問いかける。
                屁理屈をごねまわしたりわざわざ難しいことを考えることだって思ってたけど
                実はとっても刺激的で、面白くて、身近なものだと思う。

                今回のブログの内容は、下の2冊を読んだ私なりのまとめです。
                興味ある人はぜひ、実際に書店(Amazonにもあるよ!)で探してみてくださいkyu








                あの人は、「数学が好き。物理や科学が好き。答えがそこにあるから」と言う。
                「答えが出ないと分かってることは考える意味があるの?」と言う。
                答えが一つじゃない問いにとって大切なのは、答えそのものじゃなくて
                答えに至るまでの思考のたどる道のりなんじゃないかな。

                私達の人生で直面する問いのほとんどが答えが一つじゃない問いだから。
                自分の人生を自分で生きるためにも、自分の問いに自分で答えれるように
                ならないといけない。そのための訓練は必要だと思う。

                学校で教えてくれるのが全て答えが決まっている問いへの回答方法であるなら
                私達は誰から、どうやって、人生の大部分を占める答えが一つじゃない問い
                立ち向かう方法を学べば良いんだろう。

                今のところ日本の学校では答えが一つじゃない問いに対する方法を教える
                カリキュラムを組んではいない。だから私達には、「自ら学ぶ」姿勢が
                必要になってくる。答えが一つじゃないからこそ、解決に至るヒントだって
                あちこちに溢れているはず。要はそれをヒントとして捉えられるかどうかなんだ。

                自ら学ぶ、自分の頭で考える。
                その行為そのものが、「哲学」なんじゃないかな。



                今日すごくステキなカフェを見つけた。そこでぽくぽく考えた。
                コーヒーと本と音楽。ふと思ったことをツラツラ書く。なんとも至福の時。
                 
                09:31 考えること comments(0)
                「意味」が分かるってどういうこと?
                0
                  いつも何も考えずに、ぼーっと暮らしているので
                  たまにはしっかり頭を動かそう、と買った本。



                  これがなかなか面白い!!
                  「哲学」と聞くと、やたらめったら難しくて、
                  偉ぶった学問のように思われるかもしれないけど
                  そうじゃないと思うんだ。

                  普段意識していないような「超当たり前」な「常識」に
                  スポットライトを当てて、角度を変えて物事を見るってのは
                  ほんとうに面白い。まさに、目からうろこの連続。
                  (この本はSFチックな物語もたくさんあって面白い。)

                  例えば、「自分以外の人間に意識はあるのか」という問い。
                  普通の人は「そんなの有るに決まってる。当たり前じゃないか」と思う。
                  でも実は、それを合理的に説明するのはものすごく難しいことなんだ。
                  屁理屈と言えば屁理屈。
                  でも、私たちは他人の痛みを「経験」することはできない。
                  だよね?


                  それから、「言葉」とその「意味」についての疑問。
                  言葉は「意味」を指す記号であって、共通の言語(記号)を使う人の
                  間でしか同じ「意味」を共有できない。

                  じゃあ、「意味」ってそもそもなんなんだろう?
                  人はどうやって「言葉」と「意味」を結びつけるんだろう?

                  「inu」という音を聞いて犬を連想できるのは
                  頭の中の犬と言うイメージ(意味)と言葉(記号)を
                  リンクさせているということだろう。
                  でも、もしそうだとしたら、「inu」という言葉を知る前に
                  犬というイメージ(意味)が頭の中にストックされていた、
                  ということになる。じゃあその意味はどこから来たのか?


                  いや、そうじゃない。
                  意味」はもともと頭の中に隠れているんじゃなくて、
                  もっと表面的なものなんだ。言葉の「意味」とはその「使い方」なんだ。
                  ヴィトゲンシュタインはそう考えた。

                  この辺の話がおもしろくて、テンションが上がる。
                  使い方が分かるってことはその言葉の意味を知っているってこと。


                  『コトバの本体は気であり霊であって、単語の集積として目に見えるものは
                  生き物として舞っていた言葉を捕獲して虫ピンで留めたものにすぎない。
                  壁の上の言葉をなぞっても虚しい。捕えるべきは「舞い」なのである。』

                  佐藤良明



                  私はやっぱり「言葉」が好きだ。
                  話すことが好き、とか物語を書くことが好き、とか
                  本を読むのが好き、とか外国語を勉強するのが好き、とか
                  そういうんじゃなくって、「言葉」そのものの存在に
                  すごく心惹かれる。


                  *************************

                  今日のお絵かき


                  大好きなカフェ。泣きたくなるほど居心地がいい。


                  看板犬のスノーボール君。箱に入れられてふて寝。
                   
                  16:20 考えること comments(0)
                  紙衣
                  0
                    他の外国語を学ぶことで、
                    「これは○○語にできない」っていう日本語にたくさん出会う。
                    逆に、「これは日本語で表せない」っていう外国語もたくさんある。

                    「悲しい」という単語じゃ直接「悲しい」という気持ちを表しきれない。
                    あれやこれや言葉を飾り付けてみる。
                    いつのまにか実態は「悲しい」という気持ちだったはずなのに、
                    それを表す過程であるはずの「言葉」が実態として
                    捉えられるようになってしまった。言葉が一人歩きする時代。
                    「言葉」はコミュニケーションのための道具である、という役割を超えて、
                    逆にコミュニケーションの邪魔をしたりする。
                    言葉に支配されている、という見方もある。

                    チンパンジーと人間の遺伝子は98%以上が同じなんだとか。
                    そのほんのちょびっとの差、2%の差に「言語」がある。
                    そしてその2%に依存した社会に人間がいる。





                    ほぼ日の日替わりエッセイ「今日のダーリン」で、
                    ほんとうに楽しいこと、夢中になる時間ってのはあっというまで
                    突き詰めていけば限りなく無に近づくんじゃないか、と書かれていた。

                    もしかしてそれって、そこに「言葉」がないからじゃないか?
                    楽しくて楽しくて夢中になっているときって、
                    「今私はとても楽しくて月でも飛び越えられそうな気分だ」
                    なんていちいち叙述してないはず。

                    言葉を覚える前の赤ちゃんの世界みたいに、
                    瞑想や座禅、ヨガが目指す境地みたいに、
                    そこにあるのは「実体」だけで、言葉が無ければ時間の概念もない。
                    それは一瞬で永遠、いわゆる無、ってやつなんじゃないだろうか!




                    『コトバの本体は気であり霊であって、単語の集積として目に見えるものは
                    生き物として舞っていた言葉を捕獲して虫ピンで留めたものにすぎない。
                    壁の上の言葉をなぞっても虚しい。捕えるべきは「舞い」なのである。』

                    佐藤良明



                    言葉を介さずに実体をなんとか表現しようとするのが
                    「芸術」ってやつだと私は勝手に思っている。
                    絵画とか、ダンスとか、歌とか。



                    『目的をなくした歌のための歌、つまりはここに、芸術が誕生する』
                    小川洋子


                    『人間が生かされている世界は圧倒的な無言に支配されている。
                    支社や動物や草花たちの無言の底に何が隠されているのか
                    人間は言葉を頼りに一生懸命探索し、記述する』


                    『いにしえの 鎧にまさる紙衣 風の射る矢も通らざりけり』
                    熊谷直実



                    う〜む。最近ますます言葉に夢中。
                    同時に言葉から離れるために一生懸命絵を描いたりもしている。

                    この頃は色だけで絵が描けないかと模索中。

                    歌詞のないピアノの音色があれだけ感情豊かに表現できるんだから
                    カタチがない色だけの絵だって、できるはずだ。

                    見たところ抽象画なのかもしれない。
                    でも目指すのは抽象化じゃなくて、まるきり逆の、
                    具象化なんだ。


                    14:30 考えること comments(0)
                    瞳孔が開くオドロキ
                    0
                      ペルシア語のフレーズ集(右無料ダウンロードできるサイト)を
                      聞きながらシャワーを浴びてる時に考えたこと。

                      日本語で、例えば「傘が必要です」と言う。
                      英語だったら "I need an umbrella." って言う。
                      これは中学校で習った。特に疑問に思わずに、
                      そうか英語だったらこういう語順なのか、と覚える。

                      ペルシア語を勉強して、日本語と同じ語順で「傘が必要です」と
                      言えることを知った時、何とも言えない新鮮な感動があった。

                      世界には何百も何千も言語が存在してるのは「知って」いたけど
                      それがどんな構造で、どんな風に言葉を組み合わせて話すのか
                      考えたことも無かった。まさに「未知」、想像の範囲外。

                      こういう想像の範囲外、考えたことも無かったことに出会った時
                      何とも言えないオモシロサが目の奥で充満する。瞳孔が開くのだ。
                      本当に、何とも言えない感動なのだ。

                      きっと子供の頃は、世界がこの「何とも言えないオモシロサ」に
                      満ちているんだと思う。大人が子供の余白を奪ってさえいなければ。
                      この刺激が学びを加速させ、情緒を豊かにするんだろうってことは
                      偉い人の研究結果がなくたって本能的にわかる。


                      大人になるにつれてこういう経験は減っては来るけど、
                      意識の持ちようによってはこれからも何度だって出会うことが出来るはず。
                      その手っ取り早い方法のひとつが、語学だと思ってる。


                      結局私たち日本人は(モノリンガルである限りは)日本語の範囲内でしか
                      物を考えてないわけだから、新しい言語を学ぶことは自分の常識を超える
                      良い手段なんじゃないかな。
                      誰が言いだしたのか知らないけど、「世界の窓」という表現は
                      「外国語」の特性をすごく良い当ててると思うんだ。

                      窓の外に何があるのか、好奇心を無視しちゃモッタイナイ。


                      私は声を大にして言いたい。

                      大人たちよ、
                      世界はまだまだオドロキと感動に満ちている!!



                       
                      00:28 考えること comments(0)
                      もはや切り離せない関係
                      0
                        表意記号としての文字(言語)、表音記号としての文字(言語)。
                        人類の歴史を24時間とすると、文字が現れたのは午後11時7分ごろ―

                        文字が登場するまで「言葉」ってのは、ただ
                        意味/概念」を「音の連なり」に重ね合わせたものだったわけだ。
                        でも古代の壁画なんかを見ると、「意味/概念」をそのまま
                        」に示したもののように見える。

                        それは芸術であって言語の進化に関係はないと言われればそれまでなんだけど
                        私は人類の進化の意義は「言語」に集約されるんじゃないかと
                        ひとり勝手に思ってるので、古代の壁画もきっと「言葉」に繋がる
                        ひとつの道なんじゃないかと考えてる。


                        例えば「意味/概念」”X”がある。「うーや!」と言う音でそれを表すとする。
                        「うーや!」は”X”をさしていて、共同体はその意味は共有している。
                        誰かが「うーや!」を壁に描く。楽しみのために描いたのか
                        必要に駆られて描いたのかはよくわからないけど、とにかく彼は「うーや!」を
                        生の「うーや!」と音の「うーや!」以外で表現する方法を発見した。

                        ヒエログリフは多くが表音文字だと聞いた。
                        と、言うことはかの地域で文字が創られたとき
                        「う」は○と書こう、「や」は△で、長音は「○」の上に「~」を足そう、
                        なんて風に「音」に対応した文字がセットされていったのかもしれない。

                        象形文字の代表格(と勝手に思っている)漢字、中国語は
                        違った経路で文字を得たのかもしれない。
                        「うーや!」はこうだ!と絵心ある人がシンボライズした図に表す。
                        じゃあ「うーや!」の横に「ろろ」を付けて、「おかぶーや!」って意味にしよう。
                        「うーや!」を表した記号は分かりやすく「う」という音にして、
                        「うーや!」と組み合わさった図はみんな「う」がつくわけだから
                        それなりに関係ある音で読もう。きっとこんな感じ。

                        音と意味をすり合わせるタイミングみたいなものが
                        言語によって違ったんでないのかな〜と。


                        私達日本人は漢字に慣れてるから、文字/記号/図を見てざっと意味をくみ取るのが得意だと思うんだ。デフォルメされた絵(アニメ・漫画)が発達したのも関係ある気がする。


                        なんにせよ、「カタチ」を残したいってのは人間の、人間ならではの本能なんだろうなーと思う今日この頃。
                        09:31 考えること comments(0)
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