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夢からさめたら やっぱりひとりかい
生まれた町を遠く離れても 忘れないでおくれ
あの町の風を
いつでもお前が きっとそばにいる
思い出しておくれ すてきなその名を
長年見ていた悪夢の正体を、突き止めた。かもしれない。
正体を突き止めれば、怖くなくなるもんだ。
そういう昔ばなしがあったっけ?
寝てみる「夢」に関する投稿は、何度かしている。
読み返しても書いたことは全然思い出せないけど、
夢そのものは「あぁみたみた!」って記憶がある。
先週ショックな出来事があって、しばらく引きずってたんだけど
どうやら消化できたようで、今は逆にすっきり。
この、タイミング、でか!!!ってこと、昔はよくあったんだったっけ。
金曜ロードショーの最後、宝船を見送りながらまた泣けてきて(笑)
おいおい、ここでも出てきた!ってくらい「船」のキーワード。縁ですな。
やっぱり、人って、死に向かうとき、いろいろ思うんでしょうね。
頑張って頑張って苦労してきたことを、誰かと分かち合いたい、って思うんでしょうか。
私はまだまだ半分も生きてないから、これから精一杯生きていかねばならんのですけど。
時と空間を超えるスーパーパワーがあるんなら
その瞬間に立ち会って、強く強く抱きしめてあげたい。
ひとりぼっちでさみしく、苦しく、暗い場所で・・・なんて思わないでほしい。
あなたは、生を、全うしたんです。と、伝えたい。
理想は、栄養のあるオイシイものを食べて、効率よく消化吸収して、
滞りなく定期的に排泄できること。
情報や知識を取り入れ(食)、理解して(消化して)
自分なりの考えを持ってそれをアウトプットする(排泄)。
適度でバラエティ豊富な刺激を受け(食)、感動する経験を持ち(消化)、
自由に表現する(排泄)。
(1)聞くチカラ→(2)考えるチカラ→(3)伝えるチカラ
(1)能動的に聞くチカラ
「聞く」姿勢ってのは、「学び」の姿勢にそのまま映し出される。
素直に人の話を聞くってのは、子どもであれ大人であれ「成長」に必要不可欠なこと。
相手の意見に耳を傾けられる、そして人の意見を尊重できる人間であってほしい。
自分とは異なる意見であっても、まずはそれを「聞く」ことができる態度が
多(他)文化を認める態度につながっていると思う。
言っていることばの意味がわかる(単語の意味がわかる)だけじゃなくて
「ことばの意図を読み取る」チカラ、コレすごく大切だと思う。
社会(学校)で測られる個人の「賢さ」の尺度が「(決まった)解を正確に答えるチカラ」であるから
「正解のない問いが ある」こと、むしろ「人生で何度も直面するであろう悩みのほとんどが正解のない問い」
なんだということも忘れがちになってしまう。
公式や解法を暗記するだけじゃ身につかないこのチカラ。
ひとつの「解」が定まってない「問」に対して放り出さずに考えるチカラ。
(3)適切なことばで伝えるチカラ
意思表示ができる。一方的に言いたいことを言うだけじゃなく、
相手に伝わる方法でことばを選ぶことができるチカラ。
伝えるという行為の先には「相手」がいる。自分ではない別の人間がいる。
聞く姿勢同様、相手を尊重できる話し手になりたい。
「伝える」ことは日本人が特に苦手とする部分なのかもしれない。(私も・・・)
以上が、目標としている母国語(日本語)のレベル。
放っておけば(幼稚園や学校など環境の影響のみで)自然と身につくかというと、そういうわけでもない。
「母国語を大切にしましょう」と言われると曖昧でよぅわからんけども
母国語における上記の「ことばの運用能力」を磨きましょう、ということなら
具体的に身近な大人がどうサポートできるか、気をつけるべき点は何かが見えてくる。
本を読むためにも、本を読むのに必要な力を育てるためにも、本を読んだあと、その内容を消化するためにも、欠かせない大切なこと
人間には、外からの刺激を受けずに、ひとりで静かに過ごす時間にしか起こらない、内的な発達が
久々に強烈な夢を見たから、覚えてるうちに一部記録しておこうと思う。
大学の同期5〜6人で円陣を組んでる。
もうすぐ地球最後の日、最後の時間。
痛いんだろうか、苦しむんだろうか、と不安になる。
時間になったけど何も起こらない。
デマだったのか、と思った矢先空がぴかっと光った。
カミナリが鳴って、地鳴りがする。地震が起こる。
ぐらついたと思ったら景色が暗くなって、
視界は岩やらなんやらめちゃくちゃになる。
それも一瞬で、今度は何も見えなくなるくらい眩しい。
太陽に取り込まれるような。
瞬間にジリジリと熱くなったけど、すぐに感覚が無くなった。
身体はもう消滅して、意識だけが光の中に残ってる。
私は死んだ。
時間も空間も関係なくなって、一瞬と永遠が全く同じものになった。
思い浮かべた場所、時間に意識を飛ばせるようになって
あちこち見に行った気がするんだけど、
今は宇宙のモヤモヤしか思い出せない。
友達と一緒に小さな部屋にいた。
壁際のバッグに私物が詰まってる。
中を覗くとハガキがあって、宛名が見えた。
息子の名前だった。
まだ五ヶ月の赤ちゃんの息子。
この部屋を出たら私は別の人生を生きることになる。
カバンの中身は前世の記憶で、これは部屋の外に持って出れない。
息子のことを思い出して切なくなった。
もういっぺん、ぎゅっと抱きしめたかった。
目が覚めてからこの部分を思い出すと涙が出てしまうんだけど、
この時の私は意外にアッサリと「ザンネンだ」くらいの気持ちで
ドアの向こうに行く。
それは友達の家の玄関扉で、見慣れた玄関ポーチに出た。
まだ前世の記憶はある。
でもすぐに忘れて、新しい「今までの記憶」が出来る。
ここで目が覚めた。
この「忘れることを惜しく思う」感覚は、昔見た夢でもあった。
忘れていく。
一緒に撮った写真をぐっと見つめて忘れるもんかって思うのに
だんだん薄れていく。写真の中のじいちゃんが薄くなっていって
忘れていくことも忘れてしまう過程を外から感じ取ってる。
ザラザラって、砂絵がゆっくり崩れてしまうみたいに。
今までの記憶って、本当に自分が通ってきた時間でてきてるのか?
疑いたくなる夢だった。
考える、という行為の土台は言葉でできている。
と、言うことは…言葉を覚える以前は「Don't think! Feel it!」だったわけだ。
(Don'tじゃなくてCan'tだったんだろうだけど)
誰もが辿ってきた過程のはずなのに、言葉で思考する今の私たちには
言葉を得る以前の世界の捉え方がどんなものだったのかを思い出せない。
言葉を介さずに触れる世界はどんなものだったんだろう。
感覚で捉える世界と、言葉(概念)で捉える世界は完全に異次元なんだろうな。
過去や未来といった時間の概念も、自分と他人という区別もない世界。
今流行の座禅やヨガといった瞑想(メディテーション)の類は、
この言葉のない(言葉を超えた)世界を目指す。
最大のパフォーマンスを得られる、ゾーンやフローと呼ばれる精神状態も
「今ここ」に全てが集約するという点で同じものだと思う。この原始的な感覚が
ストレス解消など多方面にプラスの効果があると科学的にも実証されるようになった。
大人が座禅や瞑想を通して一生懸命目指そうとしている世界に、
物心つく以前の私たちは生まれながらにしてどっぷりと浸かっていたわけだ。
→ どっぷりと、分別のない世界に
【単なる空白の期間なんだろうか?】
生の原始的な感覚の世界で得た経験は、言葉の獲得のために集約されるように見える。
2〜3年しかない生の原始的な感覚の世界と、言語を習得した後の世界は
どんなふうに繋がっているんだろう。生の原始的な感覚の世界は単なる空白で、
言葉を覚えるための前段階に過ぎないんだろうか。 子供の言語教育といえば、この空白を埋めることを指す。
いかに早く発語させるか、いかに多くの語彙を覚えさせるか。
早く数字や文字を覚えさせよう。 空白が大きいうちに数カ国語を覚えさせよう。 私が興味あるのは、数年しか経験できないこの世界が本当に
急いで埋めるべき空白、ムダな期間なのか、ってこと。
【心を動かす天才】
外の世界を言葉を介さずにダイレクトに受け止めたときに起こる反応が
「感動」という心の動きなんじゃないか、と考えたことがある。
そして「感動」を原動力にして人は「成長」することができる。大人も子どもも。 子どもが「感性豊かだ」とか大人に比べて「感受性が高い」と言われるのは
感動の閾値が低いからだ。まだ言葉のフィルターが完成していないから、
世界に対して、自分という存在が無防備に開かれている。
だから五感でキャッチした刺激を刺激のままに、感じ取るままに受け止めることができる。
言葉を獲得した私たちは、言葉をもって世界を把握・分類・定義する。無意識に。
心の動きすら言葉で定義する。そして理解したつもりになっている。
枠にはめられて制限された心は、動じにくくなる。つまり、感動の閾値が高くなる。 言葉を操る能力、考える力は一種のスキルだから、訓練すればどうにかなる。
頭の動かし方は誰かに教わることができるかもしれない。
でも心は「さあ動かそう」と思ってもなかなか動かせるもんじゃない。
私は子どもたちに、心が何にも制限されずに自由に動けるうちに
たくさんの感動を経験してほしいなって思う。頭を動かす訓練で
その貴重な期間を埋め尽くすのはもったいない気がするんだ。
→ 感動する準備
【情報・知識としての言葉】
体験が言葉の習得を加速させる、という研究は多く発表されている。
身体で経験する、五感で世界を取り込む。それが心を刺激して動かす。
心が動く経験(感動)が、成長の原動力になる。そういうことだよね。
でも、この経験をすっとばしたとしても言葉は覚えることができる。
言葉は意味と音を結びつける記号でしか無いわけだから、ただ
特定の意味を示す音のカタマリとして機械的、反射的に記憶させればいい。
これが空白を埋めるための言語教育だ。言葉は知識、情報として扱われる。
子どものための英語教育なんかもこういうスタンスが主流だ。
こうしてチャッチャと頭で考える世界にデビューした子どもと
心を動かす経験をたっぷり経てから言葉の世界にたどり着いた子どもは
その後の思考能力・精神面・運動能力・人格その他諸々に違いが出るんだろうか。 言語の習得過程に関する研究はたくさんあるけど、こういう内面的な活動を
客観的に測定するのは難しいから、想像に頼るしか無い。だから、
○○メソッド、○○の子育て論とか、信念的なものの中でしか語られない。
私個人としては、知識・情報としての言葉を一方的に注入するやり方に
すごく抵抗があるんだけど、それがどうイケナイのか正直よくわかっていない。
人間は何のために言葉を得たのか。鳥のさえずりやカエルの合唱みたいに、
セックスアピールだったのかもしれない。危険を知らせる信号だったのかもしれない。
群れの中で仲間意識を強める手段だったのかもしれない。
これだけ複雑に言葉の仕組みが発達したのは、情報の伝達だけが目的じゃないからだろう。
言葉の背景には、心がある。意思がある。そこに人間らしさがある。
私は、言葉から人間らしさを奪いたくない。そう思う。
そして、8年続けてきたブログを書くっちゅう習慣を
そろそろおしまいにしてもいいかな、と思ってます。
ボケ防止に、役に立ったのかどうかはわからないけど
少なくとも楽しかった。
最初は奇怪で愉快なルームメイトの生態観察日記から始まって
本とか映画を見て考えたこと、どっかから拾ってきた刺激的なアイデア、
身の回りで起きた不思議なこと、新しい土地での探検記、
スクラップするように書き溜めてきた。
「嫌な気持ちは残さない」ってのを書くときのマイルールにしたから
振り返れば楽しいことばっかり残っていてくれた。
うん、楽しかったな。人生って、おもしろい。
きっと、これからも書きたいことは尽きないんだろうな・・・!
先日ナショナルジオグラフィック(日本版)のウェブサイト記事で
遠吠えの主な理由3つが紹介されていた。
1、なわばりを知らせるため
2、迷子になった時に連絡を取るため
3、仲間との絆を維持するため
今日、夫のたっての希望により映画「AVENGERS」を見に行ってきた。
今回、第二作になるこの作品。評判はどうなんだろう。
突然登場する全身タイツマンやら使い捨てのように殺される新キャラやら
毎回ボーイフレンドが変わるビ○チやら個人的にはツッコミどころ満載なんだけど、
夫曰く「俺はAVENGERSにストーリー性は求めていない」ってわけで
お互い楽しめたんだからよしとする。
映画館に行く道すがら、公園から犬の遠吠えが聞こえてきた。
犬の声には何よりも早く反応するのが私たち夫婦。すぐさま声の主をつきとめた。
それは茶色い唐揚げドッグ(トイプードルは唐揚げにしか見えないから)と
マルチーズ風の白い犬と、飼い主らしきひとりのおじさんだった。
口を空に突き出す白い犬。唐揚げもワンワンと合いの手を入れている。
おじさんは2匹に顔を近づけて何か話しかけているように見える。
近づくにつれて遠吠えも盛り上がってくる。
アオゥーーーーーーアウッアウッ!!!
おじさんは吠えないように一生懸命諭しているんだろうか。
アオゥーーーーーーーーアウアン、アウアンッウンッウンッアーーーー!
遠吠えに抑揚がつく。
そして私たちは気づいてしまった。
遠吠えをしているのはおじさんだということに。
口を突き出している白い犬の声はかき消されているのか、それとも
声にならない声でおじさんにつきあっているのか。
後で信号待ちをしていたベビーカーを押すおばちゃんが、
ものすっごく嫌そうな顔でおじさんを睨んでいた。
あれは台湾人から見てもCRAZYなおじさんだったようだ。
恐らくあの3匹・・・じゃなかった、2匹と1おじさんは、
「3、仲間との絆を深めるため」に遠吠えをしていたに違いない。
夫はスリッパを左右逆にして履く変な癖がある。なぜだろう。
久々に、小さな桐箱の水彩セットを引っ張り出してきた。
お友達にもらったスケッチブックも気軽に描くのに丁度いいサイズ。
クレヨンは手も机もいっぱいよごれちゃうし、
描くたびに手を洗いに行くのもめんどうになって、ちょっと距離を置いてる。
先週、すっごくおいしい「鹹湯圓(シエン・タンユエン)」のお店を見つけた。
大きなもちもち団子の中に煮込んだ味付けそぼろ肉が入ってる。
一緒に入ってるワンタンも、これまたウマイのなんの。
乾麺もピーナツ風味のタレが絡んでバクバク食べれちゃうよ。
どうしても夫に食べさせてあげたくて、土曜日に連れてったんだけど
お店閉まってた。平日だけなのかな??残念。
最近ワンタンにハマってて、近所のワンタン麺屋さんに毎日出没してる。
ここは今年に入ってオープンした新しい店なんだけど、
バイトのおばちゃんも増えてようやく落ち着いた感じ。
開店当初は全く手が回ってなくて「卵炒飯注文したの誰ーーーー?!」って
大声で呼ばれる自己申告制だったし、30分ほど待ってようやく
「ごめん、何注文してたんだっけ?今から作るわ!」なんてこともざらだった。
待てど暮らせど出てこないから途中で怒って帰っちゃう人も毎日いた。
その度に「パインセー(ごめんね)!まだ開店したばっかりで大変なのよー!」って
普通に言い訳してて面白かった。これ、最初の3,4か月はずっとこんな感じ。
よし、来週こそは「鹹湯圓(シエン・タンユエン)」リベンジだ!
夫よ、待っていてくれ!連れてってあげるからね!
確か、主人の会社の上司にセクハラされて、ぶん殴る夢だった。
わざわざベッドから遠い棚の上の置いたのに、
アラームを切ってすぐにベッドにUターンする私。
土下座みたいなおしりぷりんポーズは、
起きたいけど眠たいという心の葛藤を具現化した格好である。
私がおしりぷりんポーズで睡魔と激しい攻防を繰り返しているうちに、
主人はキッチンで朝ごはんを準備していてくれた。
焼き鮭と、目玉焼き。それから納豆とお味噌汁。
マンションを出たとき、天気はあいにくの雨
赤いカッパをすっぽりと着こなしたラブラドールとすれ違う。
台湾では大型犬も小型犬も、基本自由散歩。みんなおりこうさんなのだ。
今日は鉄道の旅。
と、言っても車窓からの景色を楽しむ前に、就寝。
「移動時間=睡眠時間」、これ私たち夫婦の旅のルール。
早起きした分の1時間半、ぐっすり眠る。
台北駅から苗栗駅まで自強号(特急列車)で1時間半、255元。
苗栗駅で区間車に乗り換える。
ピピピピピッと発車の合図が鳴り始めたころ
「ハヤク、ハヤク、ハヤク〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!(中国語)」
と叫ぶ甲高い声がホームに近づいてきた。
階段からものすごい(スローな)スピードで駆け降りて来たのは
派手目なおばちゃん軍団。
一番最初に電車に辿り着いたひとりが、ダン!と片足を車内に踏み込んで
我が身を盾に他の仲間が辿り着くまで電車のドアをディフェンスしていた。
ぜぇぜぇはぁはぁ言いながら乗り込むおばちゃんズ、総勢6人。
身体を張って電車を止めたおばちゃんはミニスカートの真っ青なドレス。
キラキラしたつぶつぶがいっぱいついている。これからパーティにでもいくんだろうか。
「なんだかすごい田舎な景色になって来たな〜」
と彼が言うや否や、目的駅に到着のアナウンス。
私たちと、かのおばちゃんズはそこで一緒に下車。
なんだかものすごいやかましい軍団に紛れ込んでしまった。
客家桐花祭のシャトルバス乗り場は駅を出て正面の信号を渡ったところにあった。
ボランティアのおじさんたちが地図とモデルコース案内を配ってた。
頑張ってワードで作りました!って感じのプリントが微笑ましい。
6人のおばちゃんズは
「このバス、タダなの?!タダなのーーー!!!みんな、タダよ〜〜!!」
ってしばらく騒いでた。この手のおばちゃんは総じて声のボリュームが無駄にデカい。
こうして私たちはこの日一日、おばちゃんズと足並みをそろえて観光することになる。
シャトルバス(紅線)に乗り込んで、山道を走る。
窓からひらひらと白い花が降っているのが見える。
五月の雪、と呼ばれる油桐
一段と賑やかな場所に到着。ここは『勝興駅』。
今は廃線となった線路が残っている。狭い道の両脇には食堂やカフェ、
臭い臭い豆腐なんかを売っている屋台やらが並んでいる。
「世界一臭い!!!」と看板を掲げる臭い臭い豆腐屋さんの前には長蛇の列が。
台湾人は納豆のことをバカにするけど、臭い臭い豆腐の臭いは比にならんと思う。
せっかくだから、と客家料理屋さんへ。
客家人の料理は味付けが濃い目で、日本人好みの味だと思う。
もちもち麺(板條)炒めと、スープで腹ごしらえ
苗栗は客家人が多い地域だから、ここでも客家料理屋さんや
客家名物の「レイ茶」DIYのお店が軒を連ねていた。
線路をたどっていくとトンネルがあるんだけど、閉鎖中だった。
向こう側にポツンと見える出口は眩しい緑なのに、その間が真っ暗で何も見えない。
ひんやりした風が中から噴き出してくる。不気味だ。
「トンネル、橋、扉ってのはあの世とこの世を繋ぐ“境界”なのです」
って、民俗学の先生が言ってたっけ。確かにその感じ、わかる。
勝興駅から「龍騰断橋」まで、道路をてくてくと歩く。
1時間ぐらいかかったかな。こんなに遠いなんて思わなかった。。。
歩くのが好きな方以外はシャトルバスを待つことをおすすめします。
「龍騰断橋」手前のカフェで一休み。足が重たい。
グレープフルーツジュースは水で香料を薄めた味だった。
「龍騰断橋」は手前に一か所と、川を渡ったところにもう一か所ある。
川にかかっている橋はかなり傷んでてオソロシイんだけど、
向こう側の「龍騰断橋」の方が見ごたえがある。
植物に飲み込まれた赤レンガのアーチ。崩れた部分からも木が生えている。
帰りは駅までシャトルバスで戻る。車酔いしやすい人は酔い止めを忘れずに。
山道ぐんぐん飛ばすし、ぎゅうぎゅうで立ってるだけでも辛い。
本当はもう一本の藍線に乗って五月雪をたっぷり観賞するつもりだったけど
体力の限界を感じてギブアーップ!!行きと同様区間車で三義から苗栗に。
そして例のおばちゃんズも一緒である。
苗栗から台北まではちょうど区間車が来てたからそれに乗車した。
ちょうど席が空いてて本当に良かった。
私はちっちゃいおばあちゃんの隣に、主人はその後ろの席に座った。
蚊に食われてぶつぶつになっている私を見て、
おばあちゃんがクリームを塗ってくれた。
このクリームがすごいの。すーっとして気持ちよくて、
虫刺され過敏症でぽっこり腫れた腕もあっというまにスッキリ!
おばあちゃん、「これあげるわ」ってそのクリームのカンカンをくれた。
リップクリームよりもちいさい、錠剤入れみたいな可愛いカンカン。
痒みも収まって台北駅まで2時間半、ぐっすり休憩することができた。
おばあちゃん、ありがとう!!
さてさて台北駅に無事着いたことだし、
荒れ狂う空腹を静めるために駅ホール二階のレストラン街へ。
あんまり混んでない丼もの屋さんに入った。
お店のお姉さんの制服はなぜかメイド服に統一されてる。
日本食料理屋さんって、大抵和風の制服なんだけどなぁ。
メニューはちゃんと日本の丼ものがメインで、天丼、豚丼、
それから女丼・・・・ん?女丼?!よく見たら男丼もある。
よくわからんけどこの色っぽい丼を注文。主人は天丼。
女丼はたまごが乗っかった豚生姜焼き丼だった。味は薄め。
天丼はもちろん天丼なんだけど、なんでかな、台湾の天丼ってイモ率がひじょーに高い。
今回の天丼はエビ天を中心に双翼のかぼちゃ天が大きく羽ばたいているスタイルだった。
ちなみに私たちがよく行く近所の居酒屋の天丼の内訳は
エビ、ピーマン、なす、かぼちゃ、台湾サツマイモ、里芋、タロイモ、タロイモその2。
イモを最初に食べたら確実にお腹いっぱいになって最後まで食べきれない。
話を戻して丼物屋さん。
右ななめ前の席にはブラジャーすっけすけのおばさん。
左の席ではひたすら写真を撮り続けて全く箸をつけないおばさん。
台湾って、ほんとおもしろいなぁと思いながらふと右隣を見ると
丼を完食して読書をたしなむおばさんが。
こんな落ち着かない店でよく読書なんてできるな〜と思って目をそらしたら
主人がこそっと、「ねぇ、あのおばさん・・・・
おもむろに歯ブラシを取り出して歯を磨き始めたよ。」
えっ!!!と思ったけど私は真横の席だから直視できず。
主人は天丼を食べながらおばさんの様子を実況中継してくる。
「歯ブラシどうするつもりなのかな?
・・・あ・・・・歯ブラシを・・・口から出して、まさか、まさか・・・
あ!!コップに突っ込んだ!!!嘘だろ〜・・・・」
ちらっと横を見たら、グラスにおっ立つ歯ブラシが目に入った。
「ん?もう一個歯ブラシあるのかな?・・・いや、あれは・・・
入れ歯だ。入れ歯を洗ってる。入れ歯、装備、完了!」
食事の席で歯を磨いてそれをグラスで洗って、
さらに入れ歯を洗う人なんて初めて見たよ。
最後に旅の思い出をまるまる持って行かれた衝撃的な出来事でした。
***********************
三義情報サイト(日本語版) → http://tung.hakka.gov.tw/default.aspx?lang=3
台湾鐡道時刻表 → http://twtraffic.tra.gov.tw/twrail/
きっと多くの人が「神聖なもの」と聞いて連想するのは
混じりけのない、清潔で、ピュアな、人に触れられていない
まばゆいくらいに明るいものや場所なんじゃないだろうか。
絶対的な、人を超えたマッチョな存在。
大昔、アニミズム信仰だったと言われる時代の人たちにとって
「神聖なもの」っていうのは、薄暗く、ぼんやりとしていて
なんだかよくわからないけどぞっとするような、
鬱蒼とした、おどろおどろしい不気味な存在だったんじゃないだろうか。
例えば神社。日本人が「神聖なもの」として思い浮かべる場所。
万葉集の中で、神社はモリと読まれていた。森。杜。
神社はだいたい森の奥にあるもんだから、
全体の中の一部としてモリと呼んでいたのかもしれないし
モリという言葉そのもの、森そのものが神聖な場所だったのかもしれない。
モリ(森、杜)の語源は「盛り」だった、という説がある。
もりもりと木が生えている場所、そしてこんもりと土を盛った場所。
人が死ぬ。穴を掘って埋める。土を盛る。そして目印をひとつ立てる。
その目印は今と同じように石だったかもしれないし、木だったかもしれない。
もしかしたら、個人を埋葬した土の小山を指して「盛り」と言っていたのが
いつのまにかその上に突っ立つ木を指して言うようになったんじゃないか、と。
【循環する神聖さ】
「死」は私たちの日常を遮断する。日常から遮断された様々な状態をケガレと言う。
ケは食べ物を、そして食べ物を摂取する当たり前の毎日、日常を指す。
ケが枯れてしまった状態、それがケ枯れ。遮断された日常をまた再開させるために、
ケガレを振り払うために、私たちはハレの場を準備し、マツリゴトを行う。
神社はマツリゴトのための正式な場所、ハレ(非日常)の場である。
そしてケガレに転じたケは、ハレの場を通してまたケに戻る。
私たちの思い浮かべる神聖な場所、神社というのは
ケ(日常)とハレ(非日常)の交換地点、循環する輪の中の一通過点だって考えられる。
「死」と「生」を交換する場所。人の手の及ばないなんかすげぇチカラにこうべを垂れる場所。
それは空のかなた上にある、非日常一点のまばゆい絶対的な存在とは違う。
【自然の中にある神聖さと、完結する神聖さ】
モリが神社であり森であったように、私たちの「神聖なもの」は自然と共にあった。
森そのものが、山そのものが、岩が、木が、川が、
それぞれに人とは違う「存在」として認められていた。
どっちが偉いか、どっちが凄いか、そういうことじゃなくて。
「畏れ」ってのはそういうことだと私は勝手に解釈してる。
自ずから然り。それが自然であって、その裏側には神聖さと日常の交差点があった。
英語のNatureは「自然」と訳されるけど、それも日本の「自然」とは違う。
人間、人工物と対立するもの、そして征服すべきものとしてNatureはある。
中東の「自然」は、日本の「自然」とは違う。
そりゃ、気候が全く違うんだから、自然環境も違って至極当然。
彼らの神聖さは、自然を一切排除しコントロール下に置いた場所にある。
肯定的で調和的、完全な状態の永遠の土地、パラダイス。
パラダイスの語源は「壁で覆われた場所」、つまり自然から切り離された場所。
なんとなく、なんとなくだけど。
日本人の「神聖なもの」も、だんだん自然から離れてきているような気もする。
どっちが良いとか悪いとかでなく。
清潔で、純粋で、完全無欠な美の拠り所なのか、
ぐるぐる回る自然の中に見出した特別な通過点なのか。
谷川俊太郎
また朝が来てぼくは生きていた
夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た
柿の木の裸の枝が風にゆれ
首輪のない犬が日だまりに寝そべっているのを
百年前ぼくはここにいなかった
百年後ぼくはここにいないだろう
あたり前なところのようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ
いつだったか子宮の中で
ぼくは小さな小さな卵だった
それから小さな小さな魚になって
それから小さな小さな鳥になって
それからやっとぼくは人間になった
十ヶ月を何千億年もかかって生きて
そんなこともぼくら復習しなきゃ
今まで予習ばっかりしすぎたから
今朝一滴の水のすきとおった冷たさが
ぼくに人間とは何かを教える
魚たちと鳥たちとそして
ぼくを殺すかもしれぬけものとすら
その水をわかちあいたい